街歩き+喫茶(時々映画)

差別論研究会から、新たに街歩きBlogへ

王将一代(1955)

1955年(製作=新東宝)の作品です。総指揮は星野和平、製作は津田勝二、監督は伊藤大輔、脚色は伊藤大輔・菊島隆三、原作は北条秀司です。

訳があって、リメイクされた王将を見続けています。まだ未見であった新東宝版をみることができました。約2時間。北条の原作の三部をすべて映画化したもので、他の二作品とは異なります。とはいえ、伊藤大輔が監督であることは変わりません。主演は本来、阪妻、そして、小春役は山田五十鈴。松竹にて製作されるはずでしたが、阪妻が急死。そのため新国劇で主演をはった辰巳柳太郎が坂田三吉役を演じます。娘の玉江は小暮実千代、君子は香川京子、そして、小春は田中絹代と、たいへん、豪華な面々が揃います。

作品としてはそこまで評価が高いものではないようなのですが、悪くない作品でした。特に、関西名人を名乗って以降、坂田の将棋道場も盛んで、坂田会にも強い弟子たちが揃ってきました。ところが、東京との対局ができなくなってから12年。東京の将棋連盟が発展的に解消するということで、東京との対局を望む若手たちは雪崩のように坂田会から脱退。沼田曜一が演じる森川八段を残して、皆が立ち去っていくのです。そして、茫然とする三吉。傍には玉江はいません。一番弟子の毛利と駆け落ちして勘当されている状態。女学校に通う君子が面倒をみていたのです。



そこに、無資格でならばと、関根金次郎名人の役回りである入江名人との対局が行われるという段取りを、天王寺時代から後援者となってきた宮田(田中春男)が、新聞社に頭を下げて設定することに成功するのです。これこそ起死回生の機会とばかりに、生きる屍となりつつあった三吉は奮起します。ところが、結果は惨敗。毛利が事業に失敗し、満州に逃亡せざるを得ない玉江は、一目会おうと対局の場にやってきますが、無残にも敗北した父親をみて、逃げるように立ち去っていきます。介抱する森川と君子。そこに、有望な弟子であった松島(中山昭二)が、おそるおそる家を訪ねてくるのです。自分は坂田を裏切った身。しかし、森川にはその心を理解されていたこともあり、詫びを入るれことも兼ねて、やってきたのです。

そして、自らが学んだ近代将棋を稽古台にし、それを超える将棋をして欲しいと懇願。入江名人との対局の際、地面に森川と松島が書き、これ以上、坂田に手ははないとした棋譜。それを帰り道、偶然にも三吉の目に入り、一度は君子にもう将棋はしないと約束した矢先、将棋台に向かって、一つの手を考え出すのです。それをそっと見ていた森川は感動のあまり飛び出してきたのです。そして、大阪に帰ろうと、前向きな展開で話は終わりかけます。小春の分も含めて人力車を予備、妙見さんにお参りしてから帰るという三吉らと一時分かれて、車に乗った森川と松島。山科に向かう途中、大型トラックと衝突して、横転……そこで映画は強引に終わります。前後二作とは異なる展開が含まれており、なかなかおもしろかったのですが、最後はあまりにも唐突で、必然性がなく、もったいない感じでした。

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今日の喫茶(147)

深夜から雪が吹雪き始め、一日、乾雪が……この冬一番の寒さ。平安神宮方面に用事。お昼ご飯は東山三条を少し東にいったところにある「あるぺん」という喫茶店で。しかし、国道沿いのスキーグッズのお店じゃないんだから。笑えます。孫にお年玉をいくらやるかで盛り上がっているおばあちゃんたちの貧しい会話を一瞥しつつ、鮭のお弁当を。

この辺り、意外にご飯家や喫茶店があることに改めて気付き、幾つかめぼしをつけておきました。白川もちょうどよい水量で、五条より南もこうであればよいのにと通り過ぎました。

帰り際には、吹雪きがひどくなっており、「瑞庵」にてホットオレを。メニューをみると太秦の「三喜屋珈琲」の豆を使っていると書いており、食い入るように店員の方に町名を聞き、「唐渡町」であることを知りました。なるほど、そういえば、梅津段町を北に上がるとレンガ造りの珈琲の店があると思っていたら、そこが本社だったようです。悪くない発見でした。店には4,5程度の若者がやかましくしていたので、離れて座ったのですが、煙たい空気だけは避けられなかったのが悔やまれます。

http://www.mikiya-co.com/

arupenzuian














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壺井の名水

円町を丸太町方面に少し東に行くと、道路が緩やかな坂になっています。西から円町に向かうと、ちょっとしたモトクロス感覚。紙屋川が通る縦の通りを「西土居通」。これが御土居の西際にあたり、「西土手」ともいわれた刑場があった場所であったことが、いろいろと得心がいきました。

西大路太子道を西に入り、佐井通東南角にあるのが「壷井の名水」。六角獄舎から引き回しをされた後、この名水で末土の水を飲み、処刑されるということが行われていたということで、まだ、壷井町では古跡として大事にされているようです。

さらに、この壷井の先に行くと旧跡が集中している民家もみられ、気になるところです。さらに、紙屋川沿いを北に上がると「法輪寺」という臨済宗のお寺があり、キネマ殿というのもあります。日本映画の草創期を支えた4人が祀られているということで、次はぜひみてみたいです。また、「達磨寺」ともいわれ、有名のようです。一方で、向かいには「竹林寺」があり、蛤御門の変の喧騒のなかで未決のまま斬首された勤皇系の囚人たちの遺骨が発見され埋葬されているそうです。
http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012913.html

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ニュー・シネマ・パラダイス(NUOVO CINEMA PARADISO)

1989年11月(ヘラルド・エース/伊・仏)の作品です。製作総指揮はミーノ・バルベラ、製作はフランコ・クリスタルディ、監督・脚本はジュゼッペ・トルナトーレです。

こういう映画好きですね。音楽がとてもよいし、話のストーリーも落ち着きと哀愁があってよい。シチリア出身の少年トトは、しばしば、村にある小さな映画館に出入りしては、技師のアルフレッドに怒られます。それでも懲りずに映写室に忍び込んで、フィルムを盗み出したり、悪知恵の働く少年。父親は、戦争に動員され、母親の期待も叶わずまったく帰ってくる様子もなく音信もありません。そんなことを見透かしているトトに雷を落としてばかり。1950年代。まだまだ、シチリアに対する差別が強い時代のなかで、サッカーくじに興じる村民、映画に興じる村民がゆったりと描かれています。

この少年は、後に映画監督となり、今はローマに住んでいるという設定。その彼も壮年期に入り、過去の自分を振り返るというシーンから、少年時代から、青年時代、そして、シチリアを出ていくまでを描くという作りになっています。行きたくなりますね、イタリアに。そこにアルフレッドが死んだという知らせが届きます。そこから回想が始まります。2時間以上の実に長い作品です。そして、何か出口のない、展望のない、そんな作品でもあります。思い出の映画館はアルフレッドの葬式に出向いたサルヴァトーレ(トト)の前に、廃墟となって立ち現われます。解体まであと数日と知らされます。「映画は幻」。



30年も帰っていなかった故郷。アルフレッドに絶対に戻ってきてはいけない。村のことを思い出してはいけない。何があってもと固く言い渡し、トトはそれを守り続けたのです。そんな自分の歩みにどこか虚しさも感じている。青年時代に恋し、その後、徴兵から帰ってくると行方がわからなくなってしまった女性を撮ったアマチュア時代のフィルム。それもまた幻。いまだ本当に愛し/愛されたことはないことを、母親は離れた息子に電話する度に悟っていました。そんなトトのことをうれしそうに思い出し、話題にし、それでも帰ってこいとは一度も言わなかったアルフレッドが形見として残したフィルム。

それをローマに持ち帰ったトトは、それをみて思わず微笑んでしまいます。様々な作品に登場するキスシーンをカットした、そのカット集を集めたフィルムだったのです。いいところでばっさり場面がカットされるといつでも観客はブーイングでした。そんな思い出も甦りながら、次から次へと映し出されるラブシーンの数々に吹き出しさえしてしまうトトの目には光るものが……映画そのものが自己言及的過ぎる側面も否めず、文脈や構成に甘さが残るのが気になりはしましたが、悪くない作品です。


newcinema














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今日の喫茶(146)

本日は、京都会館に用事。その後、少し西に行ったところにある「コーヒーショップミカ」に入り、モカを頼みました。落ち着いた雰囲気で、味もまずまず。少し高いかなと思いましたが、悪くはありません。細見美術館内のカフェに寄ろうかとも思ったのですが、まずはこのあたりからということで。

疎水前のいいところにあるお店です。まったく寒い日が続きますが、カフェ巡りをもう少し頻繁にしたくなる季節ともいえます。今回は、話がメインだったので、写真は撮れませんでした。残念。

(Y)

今日の喫茶(145)

さて、12月4日、久方ぶりに日本基督教団管轄の「バザールカフェ」にイベントの用事で行きました。帰りに同志社大学を通ると、なんともいかがわしいクリスマスツリーが……Roamのイルミネーションで今年も辟易しているところに……

それはさておき、その後、打ち上げで向かったのが「Social Kitchen」。相国寺の裏手にひっそりとあります。「21世紀の公民館」を目指しているとのことで、ホットコーヒーを頼みました。その他、おつまみ系が充実しており、2階では不思議な展示をしていました。

1階は喫煙可となっており、これはアウト。「社会」などという反体制的な表現を堂々と使うところに怪しさを感じましたが、、それ以上に、破廉恥な客として振舞っていたわたし(たち)は、いったいどのように映ったのか。

まったく社会の恥でした。

Scoial Kitchen
http://hanareproject.net/


(Y)

大誘拐――Rainbow Kids

1991年1月(製作=「大誘拐」製作委員会、配給=東宝)の作品です。製作は岡本よね子・田中義巳・安藤甫、プロデューサーは森知貴秀・水野洋介、監督・脚本は岡本喜八、原作は天藤真です。

北林谷栄が80歳という設定で、誘拐される役で登場しますが、とにかく若い。溌剌としています。莫大な財産を持つ資産家。子どもたちにどう分配するか、といった話にはほとんど頓着せず、悠々自適、自分らしい生活をするお婆ちゃんという感じ。そんな北林を狙って、大金をせしめようとするのが出所したばかりの風間トオルとその仲間たち。まったく緻密でない誘拐劇を展開していきます。ところが、これがなかなか捕まらない。警察本部長には緒方拳。手を焼きます。

というのも、北林自信が、自らが捕まらないように手を貸すからです。なぜ、そのようなことをするかといえば、身代金ということで、持っている財産の大半をつぎ込めるかどうか。子どもたちの本心を確かめようという意図があったのです。普段は放ったらかしで遺産のことになるといがみ合う兄弟姉妹たちが情けなくてしょうがないといった感じの北林でしたので、これ幸いと、自らさらわれる。そう言った方が適切でしょう。

一方、孤児院で育った風間は、その理事長でもあった当時の北林が、なんでもかんでも慈悲の心で接してくることを、受け入れられず、反発して施設を出てしまいました。案の定、その後の生活は荒んだものなっていくのですが、そんな折に、この婆さんのことを思い出し、今回の計画を思いついたのです。舞台は和歌山。テレビ局の社長に中谷一郎、報道局長に上田耕一、誘拐先で生活の面倒をみるおばさんに樹木希林。古参刑事に常田富士男、新人刑事に嶋田久作。家族には神山繁や岸部一徳。ナレーターにはおなじみの寺田農といった豪華メンバーが揃っています。

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都はるみ@京都会館

さて、ようやく、直に都はるみの歌声を聴くことができました。1948年、京都の西陣の作庵町の出身。バックバンドの閻魔堂とともに、身体に優しいコンサートだったように思います。京都会館。ほとんどは年配の方が多く、早速、ステージが降り立ち握手しながら、「はるみの三度笠」を唄い続けることができるというのは、すごいなと感心させられたものです。

星野哲郎、市川昭介、そして、阿久悠といった名前が出され、曲にまつわるエピソードなども交えながら、その小さな身体から、機織りを傍に母親に訓練させられたといううねりの利いた喉を響かせていました。何度も唄って複雑な心境になったという「北の宿から」はもちろん、「涙の連絡船」「大阪しぐれ」「千年の古都」「ムカシ」「アラ見てたのね」「邪宗門」「アンコ椿は恋の花」といった感じで、名曲の数々を堪能させてもらいました。

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(Y)

今日の喫茶(144)

今日は、秘湯といわれる黒川温泉のさらに奥地にある旅館山みず木に併設されている、「井野家」に訪れました。温泉はあまり得意ではありません。熱いので。なので、湯上がりに楽しむはずの茶房で、ソフトクリームプリンとホットを楽しみました。このあたりは、気温は5℃。寒すぎました。

ご存じのように2005年に黒川温泉への入浴を拒否されたハンセン病者(元患者)らが、ホテル側の謝罪を拒否し、そのままホテルは倒産。刑事事件にまで発展した黒川アイスター事件の現場です。同ホテルの跡地らしきだだっぴろい草場もありました。

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(Y)

今日の喫茶(143)

初の熊本入り。一応、仕事です。石牟礼道子の夫で教組の役員もしていた弘氏(小学校教員)が出入りしていたという「アマンド」によりました。なかなか雰囲気のよいお店で、キリマンジャロを頼みました。なぜか、東映の時計があったので、マスターに尋ねたところ、店の前の道をさらに一本進んで国道3号線沿いに映画館があったということです。10数年前に潰れてしまったようです。

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(Y)

今日の喫茶(142)

本日は、天六付近に用事があり、駅を北側にいったところちょうど天七商店街沿いにあるその名も「タイムリー」というお店に。珈琲専門店だったので、普通に給仕されるのかと思ったら、なんと、セルフ。しかも先に注文するというシステムに少し戸惑いながらも、気のいいおばちゃんとおっさんが経営していました。

店内には珈琲関係の器具から生豆までぎっしりと並んでおり、近所の商店主から一見さんのお客まで、その場で焙煎した豆を持ち帰っていきます。その風景が何度も続くものですから、軽食とアイスコーヒーを済ませた後、少し店内をまわり、ついつい、200gほどブレンドを買ってしまいました。さらに、ドリップ用10パック。こちらは篠山の黒豆をブレンドしているようで、賞味期限が近かったのもあり格安で譲って頂きました。

写真にある黒い器具は、なんと、フランス製のロースターで、1850年もの。まさに、"ルイボナパルトのブリュメール18日"……。


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(Y)

新藤兼人の方法

さて、拙稿を『部落解放』の最新号に掲載させて頂きました。

「『縮図』から『女の一生』にみる新藤兼人の方法」(部落問題に迫る遠近法としての映画①)『部落解放』637号,pp.96-106.
http://www.kaihou-s.com/bl/bl_mokuji/bl_201011.htm

近代映画協会に謹呈させて頂いたところ、新藤兼人監督からお手紙を頂き、誠に感激しました。先日もドキュメンタリーに登場されていましたが、撮影中の『一枚のハガキ』も公開を楽しみにしているところでした。

今回は、1953年に公開された二つの作品と部落問題の関係性について、言及したのですが、映画評論家でも映画研究者でもないところから、いろいろと論じていければと考えています。

今回の文章は、長きに渡る第一線の女優として生き、2010年4月、98歳でその生涯を終えた北林谷栄に敬意を表して著したものでもあります。ご冥福をお祈り致します。「瑞穂劇団」についてもいつか調べてみたいと思います。


kitabayashi











(Y)

今日の喫茶(141)

大島四つ角から、桜本に向かう途中に「マインツ」という喫茶店があります。昨日に通り過ぎたので気になっていました。思わず、早朝から飛び込んでしまいました。地元の人たちが憩ったり、おばちゃんたちが会議風の集まりをしたり、保育園への送迎帰りのお母さん方が、結構、お店に入っていたのが印象的。

珈琲は、色目は薄めでしたが、330円という破格の値段。

マインツ









(Y)

今日の喫茶(140)

今日は川崎市立川崎図書館から、幸図書館、梯子。何かと市内ではお祭りというか、イベントが行われていました。砂子町内会など。季節だからなのか。幸区の文化センターに入っている「ねこのて」という喫茶店に。朝は上島珈琲、夜はルノアールと一日に三軒の喫茶店へ。豆乳入りミルク珈琲→アイスコーヒー→ホットオレ。

気候はたいへんよかったのですが、とにかく人ごみがうっとうしく、疲れましたが、何かと堪能することができた一日。しかし、まだまだ壁は厚い。また、ついつい無駄遣いをしてしまいます。気をつけたいと思います。

nekonote











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スタンド・アップ(North Country)

2005年(アメリカ、ワーナー・ブラザース)の作品です。監督はニキ・カーロ、製作総指揮はヘレン・バートレット、ナナ・グリーンウォルド、ダグ・クレイボーン、ジェフ・スコール、製作はニック・ウェシュラー、脚本はマイケル・サイツマン、原案はクララ・ビンガーム、ローラ・リーディー・ガンスラーです。

1989年。ミネソタの北部の鉱山に一人の女性が子どもを二人連れてやってきます。そこは、実家。父親は鉱山労働者。暴力亭主から逃れてきたシャーリーズ・セロンは、どうにか生計を立てようとするも、理容院の洗髪係が関の山。そこで、かつての友人フランシス・マクドーマンドに出会います。そして、鉱山で働くことを進められます。それまで、その鉱山で働いたことがある女性は1人だけ。過酷であることは想像がつきます。それ以上に、男社会に飛び込んだ女性がどんな目に遭うのか。それは、想像に難くないものがあります。セクハラ、セクハラ、セクハラ……。その連続。女性用トイレの設置を組合で訴えても、男性組合員は取り合ってくれない。女性たちも必ずしも団結している訳でもなく、言い立てるセロンは、段々と浮いていきます。誘ってくれた友人は、会社を辞め、ALS患者として、徐々に肉体の硬直に苛まれながら、夫の優しさに包まれています。

そんな姿が正直うらやましいセロンは、女子高生時代に出産し、以来、父親からも信頼を失うほどの「あばずれ」というレッテルを張られます。この出産は、後に、教師の強姦であることが分かります。しかも、集団訴訟を目指して、会社を訴えた法廷のなかで。その性遍歴から、彼女の訴えの正当性を退けようとする会社側の女性弁護士。圧倒的な不利な状況のなかで、現場監督を退けて、社長に訴えますが、トカゲのしっぽ切り、退職勧奨。それをきっぱり拒否。アイスホッケーの活動に参加している息子は、母親のこともあり、チーム内でも仲間はずれ。段々と、母に食ってかかるようになりますが、根は素直。その長男こそが、高校時代の子なわけです。妹は天真爛漫。可愛さそのものという感じで、好対照。



最初は団結できると思った女性たちの引き具合は、本当に冷酷なものです。言い立てるセロンに、男女ともに疑いの目を向けるなか、彼女たちの持ち場をし切るのが、その高校時代に付き合っていた男。しかも、教師に強姦される姿を見ておきながら、何もできず、思わぬ再会に、再びいい寄ってくるのです。突っぱねるセロンに逆ギレする始末。法廷でも、「レイプではない」と証言し続けます。感動的なのは、組合の大会で、この集団訴訟をあげつらい、批判するシーン。そこに訪れたセロンは我慢ならず発言を求めます。持ってきたメモも十分に読み上げられずに、マイクを取り上げられます。しかし、そのマイクを次に握ったのは、誰でもない最も身内で理解者に成り切れなかった父親だったのです。

法廷でも、娘を犯した教師に食ってかかる程。母親は、娘を信じ続けていました。男運が悪い女性で、少しでも美人だと生じやすい関係性が、図式的に描かれている感もありますし、元アイスホッケーの選手で裁判を担当してくれる弁護士の弁護も少し急ぎ足感がありますが、かつての恋人に本音を吐きださせ、法廷内で彼女に賛同する仲間を立ち上がらせるきっかけを与えるクライマックスは、それなりに感動してしまいます。1984年に提訴。1997年に和解。就業規則に性的迫害から女性を守るという規定を書き加えた全米最初のセクハラ訴訟と言われている実話を映画化したものです。

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(Y)

グッバイ、レーニン!

2003年(独、配給=ギャガ)の作品です。監督はヴォルフガング・ベッカー、製作はシュテファン・アーント、脚本はベルント・リヒテンベルク、ヴォルフガング・ベッカーです。

映画の存在自体は、ことあるごとに耳にしてきたものの、見たのは初めて。民放でやっていたので、たまたま、見ることができました。時期は、1989年のベルリンの壁崩壊前後。自分の夫が、西側に女性を追い求めて出て行ってしまい、まったく面目丸つぶれの女性が、社会主義者としての優等生として自らをしたてていく痛々しさから描くところ始まります。教育者として、党活動家として何度も表象され、東ドイツ国民の鏡のような女性・母親へと変貌を遂げていきます。一方、姉と弟の二人の子どもたちは、父親が西側に行ってしまったことと、母親の変化に痛々しさえ感じながらも、よき青年へと育っていきます。

とはいえ、時代の変化は訪れます。いわゆる東欧の革命といわれた旧共産圏での「民主化」運動の高まりのなかで、東ドイツでもホーネッカーが、勇退という名の退陣。党綱領も変わり、市街でもデモ行進が行われる程に。そんなある日、息子もデモの騒乱状態のなかで、警官に殴打され、車両にぶち込まれるところを、母親とバッタリ。そのまま、母親は心臓発作で気絶。8ヶ月の間、こん睡状態となってしまうのです。その間に、ベルリンの壁は崩壊。西側と東側の往来は進み、西側の文化が雪崩のように入り込んできて世界は一変していきます。姉が「バーガーキング」でアルバイトし出すのは典型で、西側の恋人と子どもまで出来てしまうのです。そんなこんなしているところに、突然、母親が目を覚ますから、大変。すべて元のまま、という演技をこなすというぎこちない日々を創作し始めるのです。



コカコーラは、1950年代に東で開発されたものが元になっている。西側ではドラッグ中毒となって、腐敗を生みだしている。東西の往来は、西側の腐敗に耐えられず、東側にやってくる政治難民。姉は段々と嫌気がさしますが、一緒に看護してくれた看護師の恋人は、優しく、ときに、このままで押し通すことの無理を忠告してくれます。誤って真実に触れかけたときは、すぐさま、創作ニュース映像を友人と作成し、ストーリーを作る涙ぐましい努力。この必死さは、再び、心臓発作が起こったら、今度こそ死んでしまうという医者の忠告からきています。事実上の東側の敗北程、ショックになる契機はない。多くの関係者が、この社会主義プレイを演じてくれはします。母親も少しずつ健康を取り戻し、自ら歩けるようにもなっていきます。

しかし、何かがおかしいと感じていたのか。西側に行った父親のことを告白するのです。彼は党員ではなかったため、国内でしばしば迫害・抑圧されていた。そのため、西側に亡命し、その成功の暁には、子どもを連れて自分も行くことになっていたのだと。しかし、それができず、離れ離れになってしまった。父親は3年間、来る日も来る日も連絡を待ち続けていたのです。バーガーキングで姉がそれらしき人物を見たとき、新たな妻と子どもたちに囲まれた父親の幸せな姿が目に飛び込んできます。そんな父の生活を知らずに、最期の時が近付き始めた母親に、父との再開の場を設定します。そして、母親は等々、真実を知らずに死んでいくのです。レーニンの巨大な胸像がヘリコプターで移動させられる光景を目の前に突き付けられたときに母親の放心状態。察するにはあまりに酷なシーン。

最後は東西で禁止されている散骨を、マンションの屋上にて行うのです。ここまで来ると、この映画への評価は、どうしても、アンビバレントに成らざるを得ません。



しかし、この主題である「グッバイ レーニン!」というのは、現代からするとますます時代錯誤感があり、また、2003年においても同様ではないかと思ったりもします。Slavoj ZizeksのDie Revolution steht bevor: Dreizehn Versuche über Lenin が、ドイツ語訳で出版されたのは2002年のこと。その2年前には、稀代のとんでも本になった"Empier"も出ている。1994年~1999年と続く、反グローバリゼーションの運動のなかで、左翼の想像力が喚起された時代、レーニンはまさに参照対照です。そういえば、ルラ政権が誕生したのも2003年1月1日でした。(サパティスタの蜂起も同日)。

時局の話をすれば、ドイツ連邦の首相にドイツ赤軍の弁護をした経験のあるシュレーダーが就いたのは1998年。東ドイツの同盟90と連合した緑の党が、連立政権入りし、環境相を務めたトリッティンは同赤軍の行動を支持していました。そして、再び、旧東ドイツでは、旧ドイツ社会主義統一党に対する根強い支持があり、社民党左派を含みこんだ左翼党は現在第4党の規模になっています。そのような基本的事実を踏まえるならば、ますます、この映画の時代錯誤感は強まるというものです。とはいえ、作品それ自体は、悪くないものでもありました。

goodbylenin














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天河伝説殺人事件

1991年3月(製作=「天河殺人事件」製作委員会、配給=東映)の作品です。製作は角川春樹、プロデューサーは宮澤幸男・霜村裕、監督は市川崑、脚本は九里子亭・日高真也・冠木新市、原作は内田康夫です。

普段は二時間ドラマで楽しんでいる浅見光彦シリーズ。若き日の水谷豊と乙羽信子の演技が実に微笑ましく、安心して見てられます。今回は、たまたまやっていた市川崑監督の作品です。浅見を演じるのは榎木孝明。兄は石坂浩二。ナレーターも務めます。同時に起こった偶然の諸事件を繋ぐのは必然ではなく、真理。話の筋は至ってオーソドックス。吉野の近く天河村のお能一家(水上家)の跡目相続と、総元を演じるのは日下武史。彼は祖父で、二人の孫を持ちます。その内、息子が外で作った兄か、内で作った妹か。女は総元になれない。そんな仕来りが形式的に強調されるものの、孫娘である財前直美が、芸の腕、血筋からも穏当な後継ぎだと思われ、母親の岸田今日子はしばしばその必然性を日下に訴えます。

日に日に日下の指導が厳しくなることに、苛立ち、嫌気がさし始める財前。兄との関係は、争いというより、実に平和的。母親が違うという違いを超えて、周囲の不穏さとは対照的で、驚くほどです。そんな折、度々の見合いを断わり、ふらふらと三流雑誌の記者をやっている浅見こと榎木は、学生時代の先輩である伊藤四朗から、能に関する記事を書かないかと持ちかけられます。最初は渋った榎木ですが、その取材地が、密猟をしていると勘違いされて警官の常田富士男に派出所に連れて行かれたところを、そうではないと証言してくれたうらぶれた感じを漂わせる美しい女と出会ったところに近接していることを知ると、翻って、その話を承諾するのです。そして、奈良へ。



この映画の特徴はなんといっても影。影の使い方を重視するという点では、さすが市川崑という感じ。派出所で榎木に助け舟を出すシーンでその顔だけが逆光で見えないという演出をするところは象徴的。その女性が、異母兄妹の兄を生んだ岸恵子だったのです。40年間、その息子が跡を継ぐことだけを祈ってきたわけですが、段々と、形勢が悪くなってきたとき、財前が演じるはずだった、跡目のための登竜門としての演目に使う能面の裏に薬を塗布し、殺害を試みたものの、まさか、それを演じたのが自分の息子だったという驚愕の事実。そして、その岸の計画を手伝っていたのは、長年、彼女が主となった宿で働く板前・酒井敏也と妻の岡本霊。何度もこの宿に泊まりに来て取材を続ける榎木を、岡本は歓迎し、酒井は警戒し、岸は案外そっけない対応。彼の嗅覚がどんどんと事件の真相に近付くにつれ、その警戒は強まっていきます。

この事件を担当するのは加藤武。最初は、この一記者を疎ましく、どこにでも出てくる榎木を適当にあしらっていますが、その兄の存在を知ると途端に態度は豹変。やはり、このお決まりの役は加藤にぴったり合っています。加藤を補佐するのは斉藤洋介。こちらは、何も考えていないので最初から協力的。映画の冒頭で都会の雑踏の中で突然、ある中年男性が毒殺される事件が。実は、この男は岸の同級生。彼女と水上家の関係をスキャンダラスにしようと、息子を持って行かれた岸の「五十鈴」を持って、何度も、参謀的な位置にいる神山を脅しに行っていたのです。それが、いたたまれず、殺してしまったのです。そして、さらに、宗家に息子を就けることはできないと断言する神山をも殺してしまった岸。そのことを、察知していた日下でしたが、自ら行った行為に少なからず悔悟の念を抱き、後継ぎに関しても、岸の望みに沿えない方向に向かうに比例して、起こる謎の殺人事件の真相を知りながらの、「傍観」だったという訳です。



その岸の執念は、自分の子どもをあやめてしまったところで終幕となります。そして、事件の解明とともに、自ら服毒自殺してしまうのです。

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舳松

堺市堺区協和町に位置する舳松人権ふれあいセンターに訪れました。人権歴史館歴史資料館と同館内にある阪田三吉記念室をようやく拝見することができました。資料館では「さんきい」と阪田を呼称し、阪田が亡くなった直後に演じられた戯曲「王将」以降の表象が、現実とは異なり、過度に阪田を滑稽な人物像に描いていると異見を主張しているのが印象的でした。

とはいえ、舳松生れの阪田が、非常に苦しい生活のなかから這い上がり、「名人」となっていくのだという主張が、どこまで、戯曲や映画と異なるのかはいまいち判然としません。現実とは異なるのがフィクションとしての芸術であることを考えれば、当たり前の話であり、逆に多くの人々の阪田の名を知らしめているという意義は否定されるものではないでしょう。曾孫が世界で活躍するバイオリニストになって、いることも併せて考える必要がありそうです。

泉野利喜蔵の出身地でもあることから、二人には関係があったようです。一誠会という地元青年グループが舳松水平社の母体となっているというのは興味深く、展示では突っ込んだ内容にはなっていなかったので、その辺りを追究したいと思います。また、8万坪という広大な面積の地域がどのように形成されたかは、ルイス・フロイスの『日本史』から、江戸時代の「塩穴」に至る過程を知っても、まだまだ物足りない感じでした。以下はセンターと阪田三吉の生家に近いとされる住宅内の顕彰碑です。

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(Y)

キャタピラー

2010年8月(配給=若松プロ・スコーレ)の作品です。監督は若松孝二、プロデューサーは尾崎宗子、脚本は黒沢久子・出口出です。

ようやく、見れたという感じです。寺島しのぶへの特別な思いと若松をもう一度見てやろうとい感じで、京都シネマに出かけました。ご段階で評価すれば、"C‐"といったところ。数ある戦争映画のなかでは、手足を失った軍神である夫と、敗戦を迎えるまでお国のための銃後の良き妻の数年間の生活風景を描きます。舞台は特別には記されませんが、ロケ地はどうやら新潟のようです。農村風景のなかで、嫁いだ寺島しのぶと夫の大西信満。再び同じ村から出征する青年を送る最中、自動車が真ん中を横切っていきます。そこには、四肢を失い勲章を付けて帰ってきた大西の姿。唖然とする家族。受け入れられない寺島は思わず外に飛び出していきます。

「お国のため」。とにかく、この一言に甘んじることを強いられるわけですが、それだけではなく、喋ることができない夫の生活を始終面倒みながら、一方で、野良仕事にも精を出さなければなりません。その頃は、まだまだ日本軍の攻勢は優勢でした。食べて、寝て、求めて……性欲だけは旺盛な大西の要求に嫌々応え、服を脱ぎ、またがり、腰を動かす寺島。呻く大西。しかし、不思議と子どもができません。そう、寺島はそのような身体であり、そのことをめぐって夫の虐待を受けてきたのです。軍神の妻を必死に演じながらも、二人きりとなった家のなかでは、感情を赤裸々に表現し、ときには優勢に立って、大西をなぶり、見下す寺島。その細かなやり取りが描かれます。



形勢は徐々に悪くなっていきます。しかし、国民にはそのことが十分には伝えられていません。古参兵まで召集される程、事態は悪化していた訳ですが、相変わらずの農村風景という感じ。ここに挿入されるのが、朝鮮人女性を強姦した大西の記憶が、寺島との性交渉の際にフラッシュバックしてしまうというシーン。狂気沙汰になる大西。しかし、そのなんたるかを知ることができない寺島は、不満げ。この如何ともしがたいディスコミュニケーションは、一つの見せ場だったように思います。しかし、記憶の挿入が、不自然過ぎて、アリバイ的にみえてしまったのは、正直、ガッカリ。

連続性を描けない若松の極めて時系列的な時間の刻み方は相変わらずで、貧困な歴史観は、現在に訴えかける鋭さを持ち合わせてはいません。残念ですが、それは「連合赤軍」の際もそうでした。週一回の1,300円の日だったので、安上がりに済んで得した気分ではありますが、そこまで話題にする程の作品ではないと思います。ただ、テーマ設定そのものは、若干、引寄せるものがありました。それが、膨らみを持たないところに、若松映画の変わらない特徴があるように思いました。寺島の演技はもちろん悪くないです。

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wakamatsu












(Y)

姫路

姫路城下のホテルに泊まり、その周辺を散歩していました。まだまだ、夜でも暑い最中でしたが、それなりに気持ちよい感じではありました。一方、駅の南側にも出来る限り、足を延ばしました。そして、城東の方へ歩いて3,40分。かつて、皮革工場や刑場などがあった空間に入ると、まだ、空間配置は比較的大きめに分割されており、同じ名前の会社もまだ存在していました。

また、「フェルト」と書かれた電柱の掲示板も、往時を偲ばせるものかなと思われました。

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(Y)
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