1984年10月(東宝映画)の作品です。製作は田中友幸・市川崑、企画は馬場和夫、監督は市川崑、脚本は日高真也・市川崑、原作は宇野千代です。
「おはん」。吉永小百合が演じる薄幸の女。一方、芸者風情で一家を構える程になったやり手の大原麗子。吉永は妻、大原は情婦。間にいるのは石坂浩二。市川崑らしい、どっちつかずの中途半端な主人公を石坂に演じさせていますが、金田一であれば、なんだかんだと物事を見抜く力を発揮するところに、作品の締りが発揮されるのですが、今作はそれがなく、終始、間延びした感じがあって、見どころは特にありませんでした。妻を捨てて、大原と一緒になったものの、近くに住んでいることが分かり、実の妻と逢引し、大原の目を盗む石坂。それを妙な円から手助けするミヤコ蝶々。そんな構図。
さらに、吉永には子どもが生まれていました。もちろん、石坂の子であり、そんな子どもがいるとはつゆ知らず。それを知っていればと、それっぽい言い訳をする石坂。吉永と再会すると抑えるものも抑えきれなくなる。そういう性分。一方、大原は勝気で頭のいい女、その分、ヒステリーも激しい。しかし、この件に関しては完全に自分が勝利したと思いこんでいますので、知りません。やはり、そんななかで、子どもが石坂のやっている小さな小物屋にやってきたときの微妙な空気。その時のぼんが自分の子どもだと知ったときの石坂の驚き。三人で暮らせないかそう強い望みを持つようになるのです。
☆
逢引を重ねながら、流れゆくままに、二人が会える家をこさえ、そこで三人で暮らせるようにしてしまう石坂。何か確信や決断があるように見えない、ふわふわと身を委ねているいかにも無責任感が漂います。そして、土砂降りの雨のなか、荷台を引いてようやくたどり着いた屋敷で燃える二人。もうすぐ坊主がやってくるはず。しかし、なかなか来ない。不安になって、事が終って、吉永が来た道を戻ると、崖から落ちて水死体が上がったと人だかりに出くわし、それが自分の子であると知って泣き崩れます。
そこでえようやく、大原にも事がばれてしまうのです。そうなると、やはり自分が身を引くしかない。子を失い、愛する人間も失う吉永。封もされていない便りをよこし、消息は途絶えてしまうのです。そして、花街では、大原の器量はますます冴えわたり、新たな芸妓衆のお披露目が盛大に行われているのです。なんともいえない華やかなものの裏にある物悲しさ。といっても、そんなに面白い作品という訳では決してありません。
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(Y)
「おはん」。吉永小百合が演じる薄幸の女。一方、芸者風情で一家を構える程になったやり手の大原麗子。吉永は妻、大原は情婦。間にいるのは石坂浩二。市川崑らしい、どっちつかずの中途半端な主人公を石坂に演じさせていますが、金田一であれば、なんだかんだと物事を見抜く力を発揮するところに、作品の締りが発揮されるのですが、今作はそれがなく、終始、間延びした感じがあって、見どころは特にありませんでした。妻を捨てて、大原と一緒になったものの、近くに住んでいることが分かり、実の妻と逢引し、大原の目を盗む石坂。それを妙な円から手助けするミヤコ蝶々。そんな構図。
さらに、吉永には子どもが生まれていました。もちろん、石坂の子であり、そんな子どもがいるとはつゆ知らず。それを知っていればと、それっぽい言い訳をする石坂。吉永と再会すると抑えるものも抑えきれなくなる。そういう性分。一方、大原は勝気で頭のいい女、その分、ヒステリーも激しい。しかし、この件に関しては完全に自分が勝利したと思いこんでいますので、知りません。やはり、そんななかで、子どもが石坂のやっている小さな小物屋にやってきたときの微妙な空気。その時のぼんが自分の子どもだと知ったときの石坂の驚き。三人で暮らせないかそう強い望みを持つようになるのです。
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逢引を重ねながら、流れゆくままに、二人が会える家をこさえ、そこで三人で暮らせるようにしてしまう石坂。何か確信や決断があるように見えない、ふわふわと身を委ねているいかにも無責任感が漂います。そして、土砂降りの雨のなか、荷台を引いてようやくたどり着いた屋敷で燃える二人。もうすぐ坊主がやってくるはず。しかし、なかなか来ない。不安になって、事が終って、吉永が来た道を戻ると、崖から落ちて水死体が上がったと人だかりに出くわし、それが自分の子であると知って泣き崩れます。
そこでえようやく、大原にも事がばれてしまうのです。そうなると、やはり自分が身を引くしかない。子を失い、愛する人間も失う吉永。封もされていない便りをよこし、消息は途絶えてしまうのです。そして、花街では、大原の器量はますます冴えわたり、新たな芸妓衆のお披露目が盛大に行われているのです。なんともいえない華やかなものの裏にある物悲しさ。といっても、そんなに面白い作品という訳では決してありません。
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