街歩き+喫茶(時々映画)

差別論研究会から、新たに街歩きBlogへ

おはん

1984年10月(東宝映画)の作品です。製作は田中友幸・市川崑、企画は馬場和夫、監督は市川崑、脚本は日高真也・市川崑、原作は宇野千代です。

「おはん」。吉永小百合が演じる薄幸の女。一方、芸者風情で一家を構える程になったやり手の大原麗子。吉永は妻、大原は情婦。間にいるのは石坂浩二。市川崑らしい、どっちつかずの中途半端な主人公を石坂に演じさせていますが、金田一であれば、なんだかんだと物事を見抜く力を発揮するところに、作品の締りが発揮されるのですが、今作はそれがなく、終始、間延びした感じがあって、見どころは特にありませんでした。妻を捨てて、大原と一緒になったものの、近くに住んでいることが分かり、実の妻と逢引し、大原の目を盗む石坂。それを妙な円から手助けするミヤコ蝶々。そんな構図。

さらに、吉永には子どもが生まれていました。もちろん、石坂の子であり、そんな子どもがいるとはつゆ知らず。それを知っていればと、それっぽい言い訳をする石坂。吉永と再会すると抑えるものも抑えきれなくなる。そういう性分。一方、大原は勝気で頭のいい女、その分、ヒステリーも激しい。しかし、この件に関しては完全に自分が勝利したと思いこんでいますので、知りません。やはり、そんななかで、子どもが石坂のやっている小さな小物屋にやってきたときの微妙な空気。その時のぼんが自分の子どもだと知ったときの石坂の驚き。三人で暮らせないかそう強い望みを持つようになるのです。



逢引を重ねながら、流れゆくままに、二人が会える家をこさえ、そこで三人で暮らせるようにしてしまう石坂。何か確信や決断があるように見えない、ふわふわと身を委ねているいかにも無責任感が漂います。そして、土砂降りの雨のなか、荷台を引いてようやくたどり着いた屋敷で燃える二人。もうすぐ坊主がやってくるはず。しかし、なかなか来ない。不安になって、事が終って、吉永が来た道を戻ると、崖から落ちて水死体が上がったと人だかりに出くわし、それが自分の子であると知って泣き崩れます。

そこでえようやく、大原にも事がばれてしまうのです。そうなると、やはり自分が身を引くしかない。子を失い、愛する人間も失う吉永。封もされていない便りをよこし、消息は途絶えてしまうのです。そして、花街では、大原の器量はますます冴えわたり、新たな芸妓衆のお披露目が盛大に行われているのです。なんともいえない華やかなものの裏にある物悲しさ。といっても、そんなに面白い作品という訳では決してありません。

ohan















(Y)

紀ノ川(花の巻・文緒の巻)

1966年6月(松竹大船)の作品です。製作は白井昌夫、監督は中村登、脚本は久板栄二郎、原作は有吉佐和子です。

花とは司葉子。文緒とは岩下志麻。和歌山の地主の家に生まれた田村高廣は、県会議員から議長、さらには国会議員にまでのし上がり、地元の名士そのもの。紀ノ川の反乱を嫁の助言で、治めることで、誰もが尊敬する人物になっていきます。あくまで縁の下の力の持ちとしての役割に徹する司。田村の弟である丹波哲郎は、そんな司の生き方が納得がいきませんでした。どこかでこの綺麗な兄嫁への憧れと反発が綯い交ぜとなった感覚。この丹波とは長女の岩下が気が合います。

家というものに閉じ込められている母親の生き方が納得がいかず、度々、反発。女学校でも、学校の方針に立て付き、時勢に流れるままの父親に食い下がる程の強気。満州で娘を生み、孫娘を連れて和歌山に帰ってきました。東京の学校にいかせたばっかりにと、田村も嘆きますが、それを超える気性の激しさ。一方、孫娘はおとなしく、身体も弱いため、正反対。時局は、日露から満州事変、さらに、日中戦争から戦後へと続いていきます。田村は、終戦を迎える前に突然の死。寂しく一人で暮らす司。ときに岩下が孫を連れて親孝行。

紀ノ川の流れに人生を喩えて生きる和歌山の人々。司も段々と老いていきます。孫娘が優しくしてくれる。自分の気質を唯一わかってくれているような、そんな振る舞いに支えられています。ある豪雨の日。寝たきりになった司は、男衆を集める村の者に田村が成した偉業が崩れるはずはない。そう信じ切って、譲りません。そして、確かに紀ノ川の反乱は、堰の決壊には至らなかった。再び、郷士の偉業を称える村人を、朝日が迎えてくれているのです。

kinokawa












(Y)

宇賀神社

久しぶり過ぎる程の「風景」。宇賀神社。ようやく。樹齢500年以上のムクノキが素晴らしい。東札辻町にあたりますが、河原町からは見えないので、ちょっと目立ちません。しかし、その出で立ちには実に圧倒されます。ローカルですが、有名人の名前も寄進者のなかにはあり、鳥居は昭和3年のもの。

まだまだ興味はつきません。9月の祭には参加してみようと思います。


uga100426_1804_01uga3











(Y)

ジェラシー・ゲーム

1982年8月(製作=にっかつ=幻燈社)の作品です。プロデューサー前田勝弘、企画は進藤貴美男、監督は東陽一、脚本は田中晶子です。

一応、ロマンポルノの一作に入るようです。「橋のない川」でもお馴染の東陽一。何を撮りたいのか、いまいちよくわからない監督の一人。大信田礼子が出ていたので、ちょっと見てみようかなと思った訳ですが、中年夫婦の仲直りと別れ、さらに、若いカップルの痴話喧嘩と絡みつつ、最後は、修復の機会を実らせることができず、大信田と村上弘明が交通事故で即死。なんともあっけない結末。夏木陽介は、単車を走らせ、風邪をきっています。最初の過ちは大信田のようです。仲直りにキャンプに出てきた二人。

最中に、普段は言わない喘ぎ方をした大信田に対して不機嫌になる夏木。ぎくしゃく。それに対して、若き日の村上と高橋ひとみ。こちらは車。喧嘩して、道路に寝そべっている高橋に、喧嘩して一人走り出した夏木が出くわし、とりあえず後部座席に乗せることに。一夜を過ごすはめになる訳ですが、夏木としては小娘にはそこまで興味はそそられていませんでした。一方、大信田も村上に拾われ、札幌へ。こちらも宿に泊まりますが、相部屋となり、その気もなかったのですが、村上も若いので、ついついのしかかってしまう訳です。後味はあまりよくありません。互いが互いの素行を気にしながら、牽制しながらの変な旅になってしまうのです。

互いが互いを気にしつつ、大人と青年の恋愛観や身体観を交差させ、違和感を感じながらもなんとなしに流れにまかせながら、結果的に、大きな悔いを残す結果となっていくのです。その辺りは若干、寂寥感を感じますね。大信田もすっかりと大人の女になってしまいました。とはいっても、30年近く前の作品ですが……。

game













(Y)

喜劇・よさこい旅行(4)

1969年11月(松竹大船)の作品です。製作は島津清、監督は瀬川昌治、脚本・原作は舟橋和郎です。シリーズ第四弾から見ています。

土佐大原の駅員であるフランキー堺、その妻に添乗員の仕事をしている倍賞千恵子。この何か起きそうな組み合わせ。松竹大船のピークだった時期かもしれません。分かりませんが。それにしても、バスガイド役の倍賞は実に綺麗です。70年代に入ると途端にやつれてしまうのですが、『男はつらいよ』第1作と同様、実に溌剌としています。森繁や植木、ハナに比べ、やはり軽やかさにおいては堺はずば抜けているように思います。これはしっかりと比較しながければなりませんが。ところどこの入れてくる小ネタが実に絶妙なんです。


「クレオパトラか楊貴妃か、桃屋の花らっきょ」「屁の一番、いいお味です」「お味噌ならハナマルキ、おかぁさ~ん」。腹を抱えます。そこに入り込んでくる隣のおばちゃんにミヤコ蝶々。度々喧嘩する二人を見て、倦怠期だの、内ゲバだの、言いたい放題で楽しんでいます。しかし、この二人の喧嘩も段々とエスカレート。長山藍子のやる小料理屋に愚痴をこぼしに来る堺は、ひそかにこの女将に心惹かれていました。一方、軽い気持ちで近くの坊さんの息子である森田健作といちゃついたりしている倍賞。二人の口論も落とし所が見えなくなり別居。



そこにやってくるのは、長山の父親で、駅長として赴任してきた伴淳三郎。娘が小料理屋をやっているとはつゆ知らず。厳格な指導方針のもと、フランキーもビシビシと指導されます。持ち前の気の強さでガンガン当たっていきます。別居生活も1ヶ月にさしかかったところ、弁当を差し入れに来てくれる長山と再婚する夢まで見る程になった堺は、そんな気持ちを打ち明けようとしたところ、父親の伴がやってきて、娘が小料理屋をやり、さらにそこの板前と結婚の約束までしていることを知り、カンカンに激怒。止めに入る堺ですが、運悪く、土砂崩れで線路が塞がれます。

汽車が迫っているのをどうするか。三人ともドタバタしながら、長山のスカートを脱がし、赤い信号の代わりにサインとし、無我夢中で振り回す堺の目の前で車両はストップ。危機一髪でした。これが契機となって、事態は好転。差し入れをしているのも実は、倍賞だったことが分かり、こちらも和解。そして、よさこい祭というタイミングな訳です。子どももできていることが分かり、ハッスルフランキー。

yosakoi













(Y)

不知火検校

1960年9月(大映京都)の作品です。製作は武田一義、企画は奥田久司、監督は森一生、脚本は犬塚稔、原作は宇野信夫です。

「美男あんま」と銘打たれて、座頭市シリーズが始まることを予感させるように杉の市という役柄で、勝新太郎が登場します。美男というのは言い過ぎの感もありますが、大映作品ですからその辺りは御愛嬌。とはいえ、今回はとにかく悪いんです。座頭市のように弱気を助けなんてさらさらありません。色と欲、金と権力。ただ、それだけを追及するように目明きの連れと大人を騙し、それは大人になっても変わらず、師匠の不知火検校・荒木忍をも出し抜いて自らその二代目に就くほど。その悪知恵に安部徹らの悪党らも舌を巻くほどです。

按摩という職業を活用して、相手の懐に飛び込み、機密情報を手に入れ、さらに、相手を油断させて、弱みに付け込み、がっぽり稼ぐ。金に困っている美人を見たらなりふり構わず手を出し、その女が土佐衛門になっても、なんら気に賭けることがないのは非人間的過ぎるところもあります。そんな杉の市の魔の手に、頼らざるを得なくなった旗本の嫁が中村玉緒。なされるがままの役柄は、ちゃきちゃきの玉緒節とは好対照。絞られるだけ絞られた揚句、夫に事がばれてしまいます。杉の市は知らぬ存ぜぬ。平然としています。



そんな杉の市は次に目を付けるのが、稀代の美女と謳われる近藤美恵子。誰もが一度は試してみたい、そんな女。それを金にものをいわせて自らのところに囲む市。しかし、近藤には左官の青年・鶴見丈二という思いを寄せた相手がいます。目を盗んでその男と逢引することがちょくちょく続きます。もちろん、その素行を知らない市ではありませんので、どうにかして、自分の方に心を向けたいと躍起になり、寺の長持ちを作らせるという名目で、あえて頻繁に逢引の機会を与えます。二人の関係はますますエスカレート。それに腹を立てた市は、鶴見だけでなく、いつまでたっても自らのものになろうとしない近藤にまで手をかけてしまうのです。

安部らをびっくり。何もそこまでと思いますが、将軍家からのご用命あるほどの坊主に出世した市に恐いものなし。従わない者を、金と力でねじ伏せる。その横暴ぶりは目に余るものになっていきます。そんな姿を目にするのは玉緒を寝とられた丹羽又三郎。一度は、死んだと伝えられた市が、見違えるように出世していたことを目の当たりにして、行列に飛び込んでしまうほど我を忘れます。もちろん、取り押さえられ、復讐は果たせませんでしたが、いままでの悪事が明るみになるのも時間の問題。いよいよ追い詰められた市は、未練がましく暴れまわりますが、時すでに遅し。お縄頂戴。台車に乗せられ庶民に見下されるように引いていかれるのでした。

siranui

















(Y)

座頭市血煙り街道(17)

1967年12月(大映京都)の作品です。企画は久保寺生郎、監督は三隅研次、脚本は笠原良三、原作は子母沢寛です。シリーズ第17弾。


ある病弱な女の死に水を取り、死ぬ間際に子どもの父親の名を言い残してこの世を去っていったことが、今回の座頭市の展開を規定していきます。その男の子が唯一頼りにできるのは市しかいなくなります。その名前と土地を頼りに、旅をする市の前を、気持ちのいい一座が通っていきます。座長は朝丘雪路。同乗するのは中尾ミエら。この座長に気に入られた市は、土地の親分から無理難題を突き付けられる一座を助け、日増しに、歓迎されていきます。この土地でも新興勢力である小池朝雄が、代官である小沢栄太郎と繋がり、宿場の雰囲気をおもぐるしくしていました。

この小池に囲われて、絵の才能を持った伊藤孝雄を春画を描かされ、それを陶器に落とし、裏の商売として儲け口となっている。もちろん、小沢が後見していますから、ぐるみです。その伊藤こそ、少年の父親であったのです。しかし、部屋に閉じ込められ、ただ、ひたすら絵を描くように強いられる状況なのでなかなかに見つけ出せません。一方、この作品に登場するもうひとりの大物が近衛十四郎。近衛は、この宿場で行われている悪事を内偵し、下手人を制裁するためにやってきたのです。そうなると、相手は小池、小沢だけではなく、生産者である伊藤にまで向いてしまうのです。そこにドラマトゥルギーが表出してきます。



最初は、子どものことも知らず、気持ちも荒んでいた伊藤は、市の申し出を受けても、子ども預かるという気になれずにいました。互いに只者ではない。そういう緊張感を漂わせる近衛と市。市もまた、小池らの悪事の仕組を突き止め、少年とつかずはなれず戯れながら、襲い掛かる刺客たちを撥ね退けていきます。そして、小沢を斬る、そこまで行きます。伊藤の居場所を探り当てるため、様々な人間を斬り倒していく市と、近衛の目的とはある程度のところまでは重なっていました。嫌がらせを受ける朝丘らを助けるのもこの二人。しかし、最後の場面では、どうしても子どもの父親として再起を図ってほしいと市、末端でやらされていたとはいえ下手人として成敗しないことには済まない近衛と、伊藤への対応をめぐって鋭く対立してしまうのです。

その時、この二人は互いに剣を抜かざるを得ない。殺陣のすごさ。互角。あるいは市の方が押されている感もあります。かつて絵付けとして働いていた師匠の娘・高田美和と伊藤が佇むしかないなかで、その激突はすさまじいものに。やはり近衛十四郎というオーラがぷんぷん。何かおの威圧感におされているかのようにも見える勝新太郎の演技。勝負は、互角。腹に居合を食い込ませたものの、近衛の命令を受けた侍が伊藤を斬ろうとしたのを防ぐ市。無防備になった市を斬ろうと思えばすぐに斬れた近衛でしたが、手を振りかざしたままでとどまり、自らの「負け」を認めるのです。

chikemuri













(Y)




今日の喫茶(133)

久しぶりに大学の南西端にあるジャズ喫茶「Your」に。木造風の作りが懐かしい。目の前にはいわくつきの小教室棟。この通りを通学路にしていたころが懐かしい。ピラフと珈琲で950円。雰囲気も味もなかなかです。まさかこの通りにあの有名な方の家があるとは……実におそろしくワクワクすることです。それに気付けたことは実に幸運なこと。この機会を生かしたいです。

your











(Y)

今日の喫茶(132)

烏丸北大路の東にいったところに「ハセガワ」というハンバーグ屋+喫茶点があります。店内は木造風。府立大や大谷大の学生が多いものの、スペースもあるので、窮屈感はありません。弁当もやっており、実に内容が豊富な洋食屋。珈琲も上島珈琲ですがまずまずの味。店内は禁煙。素晴らしい。少しペースを上げて、今年中に「今日の喫茶」も200件を目指そうかと最近思い始めています……。

ハセガワ















(Y)

お役者文七捕物暦――蜘蛛の巣屋敷

1959年4月(東映京都)の作品です。企画は辻野公晴・小川貴也、監督は沢島忠、脚本は比佐芳武、原作は横溝正史です。

文七を演じるのはもちろん中村錦之助。中村一門が実際に歌舞伎役者として登場します。その息苦しさから抜け出した錦ちゃんは、家の敷居を跨ぐことを禁じられている身分。ところが、そうもしていられなくなります。横溝作品ということもあってサスペンス性は高いです。土蜘蛛といわれるかつて滅ぼされた一味が暗躍し、老中役の山形勲の息子のところに嫁入りさせるという政略が各藩で闘われているところ。一歩抜け出していた勝田藩では、予定されていたお姫様が殺されてしまいます。

その下手人にあげられるのが文七とは比べ物にならないほど役者一筋の兄。さらに、父親の中村時蔵(作品のなかでも中村名)も襲われ、大怪我。錦之助は、大岡越前である片岡千恵蔵に願い出て、自ら犯人探しに奔走します。もちろん、十手持ちでもないので、水面下でです。命を狙われる錦之助を匿うのはちょっといい女・桜町弘子。会えば互いのすれ違いに口論が絶えませんが、それも仲の良い証拠。



土蜘蛛と相互利用をしながら、自らの地位を高めようとするのは掛川藩の薄田研二。彼こそが黒幕であり、豪商である進藤英太郎や中村座の元役者で破門状態になった徳大寺伸が加わり、大芝居をうっていたわけです。すがのお奉行も手をこまねき、胡散臭さを感じながら、目立って真犯人を取り逃がしてはもともこもありません。だからこそ、気風と度胸では、そんじょそこらの同心ではかなわない文七を信頼し、ある程度、自由な行動を許すのです。それは父や兄の仇打ちといった側面も持っています。

錦ちゃんはさすが役者の血統をひいているだけに、数々の変装を行い、相手から味方まで手玉にとります。どうやら、黒幕の薄田の手先となって蜘蛛の巣屋敷の謎の怪物をしていたのが徳大寺。それを突き止めた錦ちゃんは、いよいよ真っ向勝負。そこに人目を忍んで単独で潜入した千恵蔵が加勢。ここまでくると体裁などにかまっていられない薄田らは総反撃。しかし、既に屋敷は包囲されていました。そして、遂に御用。桜町に笑顔で迎えられる錦ちゃんは実に晴れ晴れ。町奴か歌舞伎役者か。どちらにも収まりきらないちゃきちゃきのはみ出し系江戸っ子が似合っています。

kumoyashiki
















(Y)

恐怖女子高校――アニマル同級生

1973年12月(東映京都)の作品です。企画は三村敬三・杉村直幸、監督は志村正浩、脚本は掛札昌裕・中島信昭です。

池玲子が口笛を吹きながら、一匹狼として活躍する女子高校「聖和学園」。カトリックを重んじるという建前とは裏腹に、完全に荒廃しきっています。理事長は金子信雄。学園の生徒に手を出すことと、彼女たちを特待の留学生としてアメリカの学校に送るという名目で人身売買を行っているという悪徳学園でもあります。そこに姉が通っており、まさに学園始まって以来の才女としてアメリカに渡ったものの、一年以上音沙汰がない。それが気になり、この学園に潜入する格好になった玲子。

校長はほとんど飾り。教頭の名和宏や教師の大泉滉などがグルになって、この学園をまわしています。厳しい授業と規律。ところが、フェンシング部の部長でありこの学園で裏番を張る女生徒・一の瀕レナに手を出している金子は、一の瀬とともに、その不満のコントロールを行っているのです。黒バラ会というやんちゃな不良グループも、体育会に対しては容易には反抗できず、毎回、上納金まで出さないといけない始末。そのような学園に入り込んだ玲子はもちろん目を付けられますが、どこにも属さず、周囲の様子を伺っています。



そんな玲子に手を貸すのは、成瀬正孝。姉と自分しか知らない口笛のメロディーを知っている得体のしれないこの男は、理事長付き運転手ということでやってきます。その成瀬は、正体を追及してくる玲子を交わしながらも、盗聴器や尾行などを続け、金子らの悪だくみの証拠を徐々に集めているのです。玲子の予想した通り、成瀬は姉の恋人だったのです。ところが、音沙汰のない恋人を追いかけてアメリカに渡ると既にコールガールに。身体もむしばまれ、別人となった姉はその後すぐに亡くなったのだと聞かされて、単なる情報収集ではなく、復讐へと明確に自らの目的を位置付け直す玲子。

黒バラ会と体育会会長である一の瀬の間には、学園側の処分の温度差をめぐって足並みの乱れが生じていました。土砂降りの中でリンチされている衣麻遼子を助けたことで、最初は一の瀬に反抗することを控えていた玲子、その玲子と敵対できあった衣麻が接近。さらに、同じ時期に転校してきた唯一の優等生である織部ゆう子が、アメリカ人ブローカーの生贄となり、心を許していた玲子の怒りは沸点に。そして、一度は暗殺されかけた成瀬が合流。留学生の歓送会を、さながら聖和学園の葬式に一転させ、金子や名和、さらに一の瀬の悪事を明るみにし、制裁を加えるのです。そして、制服を脱ぎ棄て、焼き捨てる玲子。実にかっこいい。

animal















(Y)

浪花の恋の物語

1959年9月(東映京都)の作品です。製作は大川博、企画は玉木潤一郎・小川貴也、監督は内田吐夢、助監督は倉田準二・山下耕作・鈴木則文、脚本は成沢昌茂、原作は近松門左衛門です。

中村錦之助が亀屋の婿養子候補となって、女将である田中絹代にせき立てられる毎日。その娘である花園ひろみと一緒になることが約束されている訳ですが、忙しない新町問屋の小間使いとしてますますこき使われるだけだと同業者からはからかわれ、その顔つきは健康的には見えません。中村のさらに手となり足となり、小間使いとして動き回るのは白木みのる。軽快です。そんな中村が曽根崎辺りで売り出している花魁である有馬稲子と恋に落ちます。しかし、有馬には身請けの話が。有名な話。東野英治郎。進藤英太郎は着々とその話を進めています。

錦之助に有馬を身請けするほどの財があるはずもありません。この置屋には、近松門左衛門がいます。錦之助と有馬の恋の行方をつぶさに観察することに。それを通じて、心中物語を制作するという展開。しかし、あくまで脇役。演じるのは巨匠・片岡千恵蔵。ここまでくると相当に豪華な顔ぶれ。一度は、身分違いと諦める手紙をしたためる錦之助に対して、絶望の淵に追い込まれながら、仕方なく身請けの話を受けざるを得ない有馬。諦めきれない錦之助は大事な店のお金300両に手を付け、東野の向こうを張って有馬を身請けするのです。それまでの俊準する姿の痛々しいこと。荒々しい主人公を演じることがある錦之助ですが、どこか男の弱さ、軟弱さ、あるいは、ひ弱さのようなものを併せ持っている不思議な役者です。

この極めて陰鬱な錦之助。何か思っていることを遂に爆発させてしまう小心っぷりは見事です。一度、踏み外すと、止まらない。二人は、廓を飛び出し、追手を逃れて、息を潜めて、ほんのひと時の時間を過ごします。しかし、犯罪人となった錦之助が捕まるのはそれからすぐでした。そして、近松の脚本は皮肉にも出来上がり、早速、舞台で上演され、人気を集めるのです。顔色一つ変えない千恵蔵。世の無情を憐れんでいるのか……。

naniwano














(Y)

座頭市と用心棒(20)

1970年1月(製作=勝プロダクション、配給=大映)の作品です。製作は勝新太郎、製作主任は真田正典、監督は岡本喜八、脚本は岡本喜八・吉田哲郎、原作は子母沢寛、撮影は宮川一夫、美術は西岡善信です。シリーズ第20弾。

勝プロ。監督は岡本喜八(東宝)です。それなりに見応えはありました。なんといっても、大人の色気をムンムンと発揮している若尾文子をめぐって、座頭市と用心棒の三船敏郎が織りなす喜劇のようなやりとりを軸に進んでいくのが観るものを引きつけます。それだけでなく、キャストは相当に豪勢です。最初は、これだけ大物と個性派を出し過ぎるとうまくまとまらない気がしましたが、その辺りも、強引に撮りきった感じがあります。関八州見廻り役の神山繁と結びつきながら、代官に自分の息子を送り込み、砂金で暴利をむさぼるのは烏帽子屋こと滝沢修。この滝沢は、文子の馴染客でもあります。

一方、この滝沢にもう一人息子があり、それが土地の親分となってこの砂金を狙っている米倉斉加年。あまりに若くて気付きませんでした、薄気味悪い妖艶さをもった、しかし、頼りない線の細い親分を好演しています。父親の財産を分捕ってやろうと虎視眈々と狙っています。その用心棒に、気ままな浪人である三船がおり、文子のやっているお店に入り浸っているという訳。その土地に、ふらっと3年ぶりにやってきた市は、あくまで温泉にでも使って身体を休めようとした程度のことでした。久しぶりに再会した鍛冶屋の常田富士男は、実にそっけない態度。そこから何かただならぬ緊張感が感じ取れ、殺伐として空気が町の中を流れています。



そんな中を陽気な顔をして歩きまわる市。桶屋の嵐寛寿郎との再会。彼の作る小さな地蔵の下に、多くの砂金が隠されていました。大目付が動き出し、神山も事前に滝沢との関係をカモフラージュ。その際もきっちりと賄賂が渡されています。隠し場所は誰にも言わない滝沢の警戒心。地団駄を踏み続ける米倉の形相がなんとも見応えがあり、その意になかなか添わない三船は、市との対決を予感しながら、跳梁跋扈する猛者たちをバシバシと斬っていきます。そこにで江戸から戻ってくるのが九頭竜という異名を持つ岸田森。なぜ、こんなに不健康で蒼白な顔をつきをしているのかは分かりませんが、彼は、異国から短銃を手に入れており、それを持って、埒を強引に開けようとするのです。

一度は、按摩のふりをして滝沢のふところに入り込み、用心棒も兼ねる市。その動きを探りながら、ただ、かつて親切にしてもらった文子が滝沢に囲われるのではない自由な生き方をして欲しいと思う一心。一方、金欲しさ、女欲しさという人間臭さを見せながら、用心棒という立場を使い、このきな臭い町を傍観し始めていた三船は、岸田の登場で、そんな場合ではなくなります。神山は、帰り道を三船、米倉らに襲われ全滅。それでも例の場所は分からない。岸田の登場で、一気に事態は加速し、息子が反逆。大目付からの取り締まりを一番に受けかねない立場であるため、父親に抗して、金の在り処を血眼で捜します。そこに、各地から亡者たちが集い、この村は騒然とし始めます。岸田の凶弾に倒れる、滝沢。滝沢の止めで命を落とす息子。さらに、そこに割り込む米倉も岸田に撃たれ、文子がかばうことで三船は命拾い、その瞬間に岸田の懐に飛び込みグサリ。



しかし、文子は重体。すぐに銃弾を取り除きましたが、命は助からないだろうと。そして、座頭市と用心棒の直接対決。米倉の手下たちを葬り、それなりに傷を負った市も万全の状態ではない。この二人の対決が必要なのか、それも分からない程、人が倒れていきます。壮絶な二人の闘いは相打ち。決着がつく前に文子の意識が戻り、どちからが命を落とす前に、ようやく収束い向かいます。獄中で知り合い、市を先生呼ばわりする寺田農、偽按摩ですぐに殺されてしまう砂塚秀夫、さらに、十手持ちとして奔走する草野大悟等など。盛りだくさん過ぎる内容です。勝プロの悪い癖か。岡本喜八の力技でなんとか作品にはなっていますが……

zatouyoujin











(Y)

若き日の信長

1959年3月(大映京都)の作品です。製作は三浦信夫、企画は辻久一、監督は森一生、助監督は井上昭、脚本は八尋不二、原作は大仏次郎です。邦画指定席より。

大映の輝いていた頃は、やはり市川雷藏の時代だったのだと思わされる作品でした。信長が桶狭間に向かうまでを描いています。うつけ者と周囲から呆れられ、長年、世話役となってきた家来にも自害される程の傍若無人ぶり。とはいえ、子どもたちからは慕われ、人質に連れてこられた女からは本物の男だと好かれ、その人物評価は一筋縄ではいかないところがあります。そんな信長を雷藏が演じています。城内に閉じ込められる生活から自由になって、やりたい放題。いつも冷や汗をかきながら、追い回すのは小沢栄太郎。その三人の息子たちは、いずれも側近として信長に付いていますが、父親の献身ぶりにはついて行けていません。

そんな信長が支配する国はきわめて小国。内部からも裏切りものが出始め、頻繁に外部の間者と連絡を取り、信長を消し、自らが大将になろうと虎視眈々と狙っています。一方、隣国の今川義元が尾張に迫ってきています。いつまでも、自由気ままな若殿様ではいられない情勢になってきます。武芸の腕は確かなものがあり、決断力・行動力もずば抜けている。その才覚を知っているからこそ、小沢は最後の最後まで、主人に仕えようとするのですが、その努力もこのままで報われない。そこで、自らの命を賭して、信長の目を覚まさせることにするのです。家族はもちろん反対しますが、家長ですから、それも無駄。この世に、未練を残す人間らしさも垣間見せながら、子どもたちに殿様を恨んではいけない、忠誠を誓うように念押しし、割腹するのです。



雷蔵は、後悔するかのように涙を見せます。小大名から人質にした金田一敦子のお付きの者として側近に入り込んだ青山京子は、雷蔵の家臣である高松英郎が送り込んだ使者。金田一にあるだろう信長への恨みを利用しながら、いざというときの駒として使おうと狙う高松は、青山に信長を殺すように指示。しかし、なかなかできかねている青山は、自分に気を持っている小沢の息子である市川染五郎に請負させますが、寸前までいったところで、父親の死を目の当たりにして、自分のなかに少しでも生じた浮ついた心を戒めます。すると手のひらを返されたように消されそうになりますが、既に兄弟の団結と信長の指導力の発揮を整っていました。

金田一は、そんな信長に惚れ込んでおり、高松の甘言にも動かされないほど、気持ちは固まっていました。情勢の変化の中で、娘は犠牲となり今川に付いた父親。それを説得氏に行くと信長に申し出ます。しかし、既に手は打ってありました。秀吉らに命じて、偽の封書を送り、功労者である彼らは今川自ら手を下させることに成功するのです。それが戦国の世。それでもなお信長に付いていく。金田一の気持ちはそれ程に強いものがあったのです。その気持ちに加速させられるように、桶狭間へと3000という小さな軍勢を率いて突っ走るのです。

wakakihi
















(Y)

恐怖女子高校――女暴力教室

1972年9月(東映京都 の作品です。企画は天尾完次、監督は鈴木則文、脚本は掛札昌裕・関本郁夫・鈴木則文、撮影は鈴木重平、音楽は八木正生です。

最近、大映か日活の作品ばかり見ていたので、以前はよく見ていた東映70年代が実に新鮮。金子信雄、名和宏、大泉滉、そして、金子の妾役として登場するバーのマダム・三原葉子の4人で悪だくみの歓談する姿は実に豪勢且つ滑稽すぎます。とはいえ、今回の主役は杉本美樹と池玲子。東映ピンキーバイオレンスを支えたツートップに、鈴木則文の演出が加われば恐いものなし。底辺の底辺にある私立高校で番を張る杉本。そこに新たに転任してきた熱血教師・成瀬正孝が挑みます。生徒にからかわれながらも適当にやり過ごす先輩教師に由利徹ときていますから最強の布陣です。

「番長、なんかいいことないかな」「あるわけないさ、世の中ひっちゃかめっちゃかさ」。吐き捨ているのように言い放つ杉本は、かつて強姦され、それ以来、自らが常に攻める側へと変わり、家族の皆から心配と偏見の眼差しにさらされ、孤独感を増していき、凶暴さも増していきます。父親は公務員として自らの体裁ばかり気にし、帰れば説教。自然と家にもよりつかなくなり、三原の店でアルバイト。そんな杉本をお気に入りにしているのが、学園の理事長の一人息子である名和宏という訳です。



そこに転校してくるのが札付きの女番長である池玲子。しかし、極めて静かに杉本らに挑発されても軽くいなす態度。そんな池が、学校で唯一分かりあえる友を見出し、生き抜いていきます。その美貌とスタイルの良さのため早速、名和に目を付けられますが、それよりも先に理事長の娘であり、腹違いの名和の妹に味方になるように説得され、反杉本の片棒を担ぐことになるのです。しかし、名和がその友・三浦夏子を孕ませ、しかも、学園拡大のための道具として使い尽すとすぐに別れ話を持ちかける。それを苦にして三浦は自殺。その直前に、衣麻遼子らにリンチされ、流産。それが決定打になるのです。

池は、この事実を知り、杉本と合流することになります。背景には、かつて金子一家らが、高利貸しとして父親以下家族での心中にまで追い詰められた過去があったことを杉本が知るに及んだこともあります。そして、金子、名和らに対する復讐を誓うのです。そのあたりから、成瀬の姿は後景に退きます。杉本たちを徹底して更生させようとした挙句に、恋人を輪姦され、強硬派になっていきます。放課後の買春行為に関しても、徹底した追求と処罰を求めますが、教頭の大泉以下、内々に処理しようとしますが、衣麻らが同じことをしていても全く不問に付されていることから、大人たちの欺瞞さに怒りを燃やす杉本。できたばかりのビーナスブリッジで対決した池の色仕掛けの罠にはまった名和と、三原とまぐわっている金子を縛り上げ校門に括りつけ、「性交学園」に退学届を突き付け、あらゆる悪事をさらけ出し、制服を燃やして、最大の復讐を遂げるのです。

kyoufu














(Y)

新座頭市――破れ!唐人剣(22)

1971年1月(製作=勝プロダクション=大映京都、配給=ダイニチ映配)の作品です。製作は勝新太郎、製作補佐は西岡弘善、監督は安田公義、脚本は山田隆・安田公義、原作は子母沢寛です。シリーズもいよいよ第22弾。勝プロ、1970年代という時代は、大映が破綻した後。どれだけ、1960年代半ばのトーンを残しているか見もの。

今回はタイトルにあるように唐人が話の中心に。日本にやってきて商売をするある中国人夫婦に出会った王羽は、中国で学んだ僧のいる寺を目指していました。しかし、途中大名行列に出くわし、夫婦の子どもがひょんなことから行列の前に出てしまい、たたっきられそうになっているところを母親が身代わりに。さらに、父親も斬られ、日本のしきたりを知らない王羽は果敢にも行列に立ち向かい、数人の家来を斬り殺してしまうのです。そして、逃亡。その混乱状況のなかで百姓や町人まで犠牲に。そのため、唐人狩りと称して、町の輩たちが駆り集められ、親分である安部徹が、指揮をし、殺伐とした雰囲気に一転。

そこを通りかかるのが座頭市。死に際の父親に抱きつく少年の涙声に気付いた市は近づいて事情を聞きますが、片言の日本語だけでは理解ができません。言葉が通じたのなら、これが本作の基本的な主題旋律でもあります。とりあえず、子どもを抱えて飯屋に入り、なんとかして、この子の面倒をみる市はやはり優しいオーラに包まれています。女郎の浜木綿子に「似てない」などからかわれたりもしながら、唐人狩りに周囲が殺気立っていることが気になります。少年も王羽を当てにしていましたので、何よりもその再会が求められています。



しかし、王羽は息をひそめていましたから、そう簡単に出くわせるはずもない。とはいえ、鼻と耳の利く座頭市は、王羽と出会います。しかし、子どもを取られ、一方的に敵意をむき出しにされる始末。ちょっと可愛そう。といっても、日本人に囲まれている訳ですから、仕方がないところもあります。それでもしつこく王羽についていき、子どもどうやら懐いているよう。さらに、目的の寺を知っているということから、引率することに。ところが、行くところもなく、一夜の間匿ってくれた村の百姓・花沢徳衛夫婦が、そのことを理由に惨殺。一人、娘・寺田路恵 が取り残されます。そんなドタバタのなかで、市は無事に王羽を引率することができず、その娘が代わりに連れて行き、逆に、座頭市の「裏切り」に対する怒りを増幅させます。行くところ、自分の命が狙われるのは市が情報を漏らしているから。そう考えるのです。

それを吹聴するのが寺にいるかつての友人である南原宏治。南波らのことを信頼し切っている王羽は、まさか、南原が安部と繋がっているとは思いもよりませんでした。すべての責任を市にかぶせようとする南原。安部らからも、さらに、この土地まで追尾してきた市に恨みを浪人たちからも狙われ、苦境に立たされます。 そして、寺田にも反感を買い、自らの手でこの困難を切り開くしかない。一度は、捕らわれた寺田を安部の耳をそぎ落としてまで取り戻し、また、子どもも取り戻します。裏切りの分かった王羽と南原は相対することになり、軍配は王羽に上がります。しかし、市との対決も避けられないままとなりました。浜や同じ座頭として知り合った三波伸介などの助けを借りて、安部らの企みを撃破したものの、無情な対決が、言葉の壁もあり、回避できず、唐人剣と居合の激突は、後者の力が勝り、終止符を打つのです。

toujinken

















(Y)

座頭市の歌が聞える(13)

1966年5月(大映京都)の作品です。企画は久保寺生郎、監督は田中徳三、脚本は高岩肇、原作は子母沢寛、撮影は宮川一夫、美術は西岡善信です。シリーズ第13弾です。

川を渡ろうとする座頭市の舞台は高崎。後方から子どもたちが危険を呼びかけますが、案の定、橋を踏み外してドボーン。子どもたちから笑い声。必死に岸に上がると、ある男が斬られています。虫の息であるその男から託された財布を、両親のもとに届ける市。偶然入った茶店の初老の婆さんが、実は、母親だったのです。大変に感謝される市ですが、死んだことは告げられず、立ち去ります。村は祭のはずなのでひっそりとしています。とにかくこの地にはやくざがいない。そんな話を知りあった盲目の琵琶法師・浜村純から聞いていた市は拍子抜けします。

どうやら、暴力支配で利益を貪る悪い親分がのさばっているらしい。それが佐藤慶。それ以来、やくざが跋扈し、とにかく、渡世人と分かればどこでも入店や宿泊を拒否される程。そんなところに、当て込んできた按摩を呼んでくれる奇特な女郎に出会います。小川真由美。どんよりと疲れた女。哀しみを背負った感じが実に美しさを際立たせる独特の色気。そんな小川の姿をまるで目の前にしているかのように市は、同情を禁じ得ません。好きになってはいけない人を好きになって、傷ついて。暴力親分にこき使われながらも生き延びようとする自分にも嫌気がさしている。そんな感じです。



そんな小川が思っている男こと、天知茂。市が川で溺れかけているところを素通りして、この不幸な女を迎えにきた身分違いの武士。彼は、佐藤の用心棒を買って出て、身請けのための50両を急いで用意しようとします。そのため、何かと自分の邪魔をする座頭市を殺して欲しい。そう頼みます。村の人たちの苦境を察した市は、法師の浜村と再会し、その訥々と喋る含蓄のある言葉に促されるように、ときに居合をしまい、ときに居合を抜き、見事なまでの裁きを見せるのです。特に、村の者から収奪した400両以上の金を一人で奪い返しに行く際の見事な立ち回り。ビビりにビビった佐藤慶はなす術なし。ぐうの音も出ない程。

そんな侮辱を受けた佐藤らの怒りは煮えたぎっていましたから、天知は格好の存在。その居合の技を既に見ていた天知は、手強い相手といえども、好きな女のためなら家を捨て、命を張って見せる。そんな意気込み。これかで女に未練がましい天知も珍しい。そして、その二人の対決は一対一で行われ、市に軍配が上がります。一度は、身分違いと諦めきった小川に突き返された男の寂しい結末。いつもならここで話は終わりますが、天知がやられるとなると、一家総出で勝負に出ないと埒が開かない。佐藤は機転を利かし、市の最大の弱点は耳であることを見抜き、太鼓の音で市を包囲し、集中力をかき乱し、命を狙います。確かに一端は窮地に追い込まれる座頭市でしたが、多勢に無勢は変わらない訳です。

utaga

















(Y)

てんやわんや次郎長道中

1963年6月(大映京都)の作品です。監督は森一生、脚本は八尋不二、美術は西岡善信が担当しています。久しぶりに邦画指定席より。しかも、雷蔵もので、うれしいです。

雷蔵が演じるのは、東海道で名を売り始めている清水の次郎長。代官殺しの犯人として指名手配。見つければ、100両という大金が手に入る。さらに、ある宿場町では、金が出ると猛者たちが集まり、飯屋に宿屋に繁盛しています。一種のバブル。そこにやってきた次郎長。自分を長五郎だと名乗りつつも、清水の次郎長のことは知らないと、何食わぬ顔。いたって余裕があります。その次郎長に、大政・小政、さらに、石松と一緒に一家がこの宿場に入ってきていたのですが、皆、素性を明かさず、次郎長一家が耳目を集めていることに内心、気持ちが高ぶります。

雷蔵は、とりあえず、少し間の抜けた旅烏のふりをしながら、次郎長探しに躍起になる島田竜三のところに草鞋を脱ぐという大胆さ。それを手引きするのは旅の途中で出会った藤原礼子。彼女もまた、なかなかのしっかり者で、目明しを務める程。島田は、貧困家庭から若い娘を買い取って女郎としてこき使い、儲けており典型的な悪い奴。代官の名和宏に媚びるため、次々に女を差し出します。さらに、金山の買い占めに邪魔となっている地権者を強引に強請り、言うことを聞かないとみると殺してしまう非道っぷり。雷蔵の怒りは溜まっています。



そんな雷蔵を側面から虎視眈々と支援しようとしているのは芦屋雁之助や小雁。小休憩に入った茶屋でミヤコ蝶々に小馬鹿にされ、小雁は自分が誰であるか言いそうになりますが、そこは雁之助が抑えます。一方、坊主の形をした藤田まことも軽妙。珍念こと白木みのるとの掛け合いは、溜まりません。中島監督もいうように、関西芸人総出演といった観のある本作は、異色の次郎長もの。そのなかにおいても決して色あせない雷蔵の存在感に脱帽させられます。次郎長の名を語る偽物が登場し、島田から土地の証文を取り上げ懐にしまいかけたところに、関八州見廻り役が登場すると途端に自分は違うと言い出す不格好さ。

そこに、自ら山本長五郎こと、清水の次郎長と名乗る雷蔵に、周囲はびっくり仰天する訳です。久しぶりにその立ち回りをみました。痛快な一作。

tenyawanya











(Y)

愛の亡霊

1978年10月(製作=大島渚プロダクション=アルゴス・フィルム、配給=東宝東和)の作品です。製作代表はアナトール・ドーマン、製作は若槻繁、脚本・監督は大島渚、原作は中村糸子、撮影は宮島義勇です。さらに、音楽は武満徹、製作協力は若松孝二が関わっています。

時代は、明治中期。車屋の田村高廣の嫁である吉行和子に、度々、田村が家にいないときに親切なふりをしながら接近する藤竜也。藤が吉行に気があるのではないか。田村はそんな冗談を言うぐらいにしか考えていませんが、実際にそうなのです。二人の関係は段々とエスカレートし、ある日、子守りをしている吉行に添い寝するようなかたちでマッサージをする藤の手つきは過剰になってきます。吉行は、躊躇します。子どもが泣いています。耳を塞ぐようにして、一時の間、自分を忘れ、藤の腕に抱かれていってしまうのです。

一度、関係すれば、二度三度と変わりはない。そういう藤に求められるままに、身体を預ける吉行ですが、やはり、後ろめたさはあります。藤もまた、田村への嫉妬が強まり、夫婦の間柄に横やりを入れる立場であるにもかかわらず、吉行との関係が許せなくなってくるのです。そこで二人は何を考えたのか。それが、田村を泥酔させて、その隙に、絞殺してしまうという大胆な計画。そして、この計画はすんなりとうまくいってしまうのです。遺体は井戸の中に。それから、3年間、新たな生活を送ることになる二人ですが、田村はあくまで行方不明。警察の捜査が始まります。



知らぬ存ぜぬ二人ですが、村にいる限り、表だって関係を結ぶわけにはいかないのがもどかしい藤と吉行。巡査である川谷拓三は、村中を聞いて回りますが、皆、はぐらかすように、いなすように、暖簾に腕押しといった感じ。殿山泰司などはそのあたりを大変よく表現しています。ある宴席の場では、小山明子、河原崎建三、伊佐山ひろ子、佐藤慶などが出てきますし、山本麟一や新屋英子なども登場し、脇の層は相当に厚い。ベネチア国際映画祭の監督賞を撮った作品ということですが、そこまで、面白いかといわれればそうではないというのも正直なところ。

田村の亡霊に苛まれ続ける二人の間に平穏な幸せは訪れません。その間に、吉行は気がおかしくなってきますし、比較的、動じなかった藤も、周囲からの眼差しも重なり、段々と、平常心を失っていきます。そして、いつしか、田村は殺されたんだという噂が信憑性を増し、井戸のなかに放り込んだ遺体を掘り出し、証拠を消そうとする二人。しかし、そこでますます発狂し、狂い死にしそうになったところで、御用。散々な鞭打ちをされ、村民たちに見せしめのため裸で吊るされ、白状したその後、死刑になったという、これまた噂だけが村にはひっそりと伝わるのでした。

ainobourei













(Y)

今日の喫茶(131)

今日は、久しぶりに梯子に梯子を重ねました。字義通りの梯子酒ならぬ、梯子珈琲。なので、いつも言っている、小川駅前→前田錦と行き、最後は川端から引っ越した彌光庵へ。ほんやら洞を彷彿とさせますが、料理屋や珈琲の味はやはり優れています。独特の細い路地から一軒家のようなお店の中に入ると、ビラ、断幕、冊子などが所狭しと並んでいます。ダート珈琲を使っているのが渋いです。

小川駅前では、本日の珈琲を頼むと清水焼のオリジナルカップで楽しめるという独自の特典もあります。今日は、ヨーロピアンブレンド。二日連続です(笑)。

小川駅前_0001彌光庵













(Y)
記事検索