1974年8月(製作=JPM、配給=東洋映画)の作品です。総指揮は三池信・小倉寿夫、製作は望月利雄・森田康司、企画は高木豊、監督村山三男、脚本は国弘威雄、原作は金子俊男、美術に木村威夫が入っています。

ソ連の圧力によって封印された幻の作品。そんな謳い文句はさておき、サハリンをどう描いているのか。それが気になり、みなみ会館まで。久しぶりです。9人の電話交換手の女性たちが、停戦協定にもかかわらず、侵攻し、多くの民間人が帰還するなか、最後の一本の電話を交換し切るまで現地に留まり、最後は、青酸カリで自ら命を絶つまでの「レポート」。8月15日の玉音放送をもっては、戦争は終わらなかった。サハリンの占領を目的としたソ連軍は、敗戦国に国際法は適用されないと豪語し、降伏と停戦の趣旨を説明にしてきた日本軍をその場で射殺。

前線では、降伏に向けた本部の意向で、包囲し始めていたソ連軍に攻めるに攻められず、現場の緊張感と苛立ちは高まります。そこには若き若林豪。その帰りを待ちながら、祝言を挙げただけであるものの、自らは交換台の班長として、動揺する交換手を統率する二木てるみ。そんな二人の恋心も描きつつ、その姉である南田洋子は三人の子どもたちを抱え、急いで、妹や母親のいる真岡に戻ってこようとします。しかし、その途中で、二人の息子を射殺され、自らも国境を超えて、南進してきたソ連兵に射殺され、再び、家族の顔をみることができなかったのです。夫である田村高廣も、ある少年を助けようとして、一瞬にして命を落とします。



既に、8月15日を過ぎています。終わらない戦争。持続する殺戮。現地の師団長は島田正吾、参謀長は丹波哲郎。彼らは、現場を度外視する中央の方針に怒りをぶつけながら、とにかく徹底して屈しないことだけを命じます。さらに、民間人の帰還を促します。しかし、その第二便も、魚雷によって沈没。サハリンは完全に包囲され、絶体絶命のなかで、多くの日本人が自決していきます。そして、容赦のないソ連軍。前年の10月は日ソ共同声明が出ており、平和条約締結に向けた動きが生れ始めていました。「封印」の原因はここにあるのでしょう。国家間に翻弄された人たちの生き様が、なお、20年経っても、再び国家間の力学によって日の目をみなかった。

しかし、同じ1963年に、この氷雪の門は稚内市内に建てられ、9人の電話交換手にはで1973年3月に勲八等宝冠章が与えられている。ナショナル・アイデンティティの構築と、社会主義圏との平和共存路線の両立の時代。一番の関心は、ソ連に残ったコリアンの人々が描かれているどうか。彼らは、その後、社会主義的人間として改造され、「忘れ去られた人々」となった。日本による戦後補償がなされるのは、1980年代末。そのことを知る人も数少ない。一方で、二木てるみや藤田弓子に見られるように、この土地に生れ、育った人々にとっての「故郷」とは何か。疎開のためにやってきたこの土地。日露戦争の際に締結されたポーツマス条約により分割支配に置いた日本領土。しかし、現在はサ条約にソ連が調印していないため、「所属未定地」。しかし、そこには、コリアンだけでなく、アイヌのほか、他の民族の人々も住んでいた。その点は映画では描かれていない。

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(Y)