堺市堺区協和町に位置する舳松人権ふれあいセンターに訪れました。人権歴史館歴史資料館と同館内にある阪田三吉記念室をようやく拝見することができました。資料館では「さんきい」と阪田を呼称し、阪田が亡くなった直後に演じられた戯曲「王将」以降の表象が、現実とは異なり、過度に阪田を滑稽な人物像に描いていると異見を主張しているのが印象的でした。

とはいえ、舳松生れの阪田が、非常に苦しい生活のなかから這い上がり、「名人」となっていくのだという主張が、どこまで、戯曲や映画と異なるのかはいまいち判然としません。現実とは異なるのがフィクションとしての芸術であることを考えれば、当たり前の話であり、逆に多くの人々の阪田の名を知らしめているという意義は否定されるものではないでしょう。曾孫が世界で活躍するバイオリニストになって、いることも併せて考える必要がありそうです。

泉野利喜蔵の出身地でもあることから、二人には関係があったようです。一誠会という地元青年グループが舳松水平社の母体となっているというのは興味深く、展示では突っ込んだ内容にはなっていなかったので、その辺りを追究したいと思います。また、8万坪という広大な面積の地域がどのように形成されたかは、ルイス・フロイスの『日本史』から、江戸時代の「塩穴」に至る過程を知っても、まだまだ物足りない感じでした。以下はセンターと阪田三吉の生家に近いとされる住宅内の顕彰碑です。

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(Y)